僕の一番嫌いな言葉。


「努力」という言葉がある。
この「努力」という言葉、僕はこの世で一番嫌いな言葉だ。

非常に都合の良い言葉であり、 余りにも無責任な言葉だからだ。
 
言うなればまやかしの言葉なのだ。

努力しているから今回のミスは許しておこう、だとか
あの人は努力しているのだからあなたも努力しなさい、だとか。
努力すればどんな夢だって叶うよ、だとか。

本当にうんざりする。
このような事を言い出す人種も僕は好きになれない。

努力なんてものは人それぞれ基準が違う。
ある人は努力だと思っていても、別の人は努力とは思わなかったりする。

こんな抽象的な言葉を依代として物事を語られても困るのだ。
何一つ具体的な事は言っていないし、気休めにもならない。

努力と言う都合の良い言葉で全て有耶無耶にしておいて、
責任の所在も全て努力と言う言葉に擦り付けているのだから。

だから僕は努力の一言で物事を片付けようとする人間は、
無責任かつ思慮の足りない人間だなと内心軽蔑している。
 
結局のところ、皆は報われたがっているのだろう。
努力という苦痛と引き換えに、報いという報酬を得るような。

言い換えれば努力をしていない人間が成功などしたなら
盗人の様な扱いでもされる事だろう。

苦痛という対価を支払わずに利益を享受しているのだから。
努力していると公言する人間にはそれがたまらなく許せないに違いない。

努力とはそのような質の言葉なのだ。

話が前後したが、僕は努力というものには必ず苦痛が生じると思っている。
苦手なモノを克服しようと行動を起こすような事がそうだろうか。

努力をしろ、と人に言うのはその人にもっと苦痛を受けろと言うようなモノだ。
僕はそんな物騒な言葉使いたくもない。

ちなみにそういう僕は自分は努力はあまりした事がないと思っている。
他人の目から見れば努力と評される事はあったのかもしれないが。

僕は何かに取り組む時にそれに対して苦痛を感じる事があんまり無い。

それは僕がその過程の中で楽しみを見出していて、
それが苦痛を上回るからだと推察している。

この努力を努力と思わないような状況は、僕には非常に良い方向に作用していると思う。

この論理で言えば、僕は何にでもチャレンジ出来てしまうのだがそうはならない。
それ以上に楽しいモノが他にも沢山あって、あれこれ手を出してしまうからだ。

好奇心が暴走しているような状態だと言えるかもしれない。
この場合1つの事を極めるのは難しいが、多くの事をそれなりに理解する事はできる。

端的に言えば器用貧乏だ。

僕は、この器用貧乏と向き合っていかなくてはならない。
1つの事を極めようとすると、「努力」しなくてはならなくなる。

苦手な事を無くすよりも、得意な事を更に伸ばす方が良い結果になる事が多い。
いかに他人よりも劣っている部分が多くとも、1つ抜きんでていれば成功者なのだ。


個人的には努力とは見せびらかすモノではないと思うけれど。

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